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悲劇のニコライ2世一家

サンクト・ペテルブルグ生まれ、エカチェリンブルクにて射殺さる

ロマノフ朝第14代にしてロシア帝国最後の皇帝。

アレクサンドル3世とその皇后マリア・フョードロヴナ(デンマーク王クリスチャン9世の第二王女)の第一皇子として生まれる。

ニコライ2世は敬虔なロシア正教の信者であった。

皇太子時代の1891年5月11日、訪日中に巡査津田三蔵により襲撃される(大津事件)。

26歳でロシア皇帝に即位し、近代化に悩むロシアに君臨することになる。

神話化され、政治的な利用のためのツァーリ像を本気で信じていた。

専制君主制こそがロシアにとって唯一正しい体制だと信じて疑わなかった。

そのため、民衆の運動に対し徹底した弾圧を加えることになった。

これが「血のニコライ」といわれる所以である

[ニコライ2世]

また、娯楽にうつつをぬかした愚鈍な統治者というイメージがあるが、一流の学者軍人に学び、語学、歴史、地理、数学、化学を含む高度な教育を受けている。

その成績からは有能な学生であったことが知れ、叔父のセルゲーイヴィッチでさえ『知性と能力の面でも父帝よりずっと優秀だった』と語っている。

純ロシア的なものを好み、異民族、特にユダヤ人を嫌い(それは当時のヨーロッパの民の多くと同じように)、当時の支配層の多くが西欧の出身であったことから、純ロシア人(スラヴ人)の出世を望むような発言も多々みられた。

また、革命家の中には多くのユダヤ人が関わっており、それがニコライのユダヤ人嫌いを増長させたと思われる。

皇后アレクサンドラ・フェードロヴナ

[アレクサンドラ・フェードロヴナ]

ロシア正教改宗前の名前はアリクス。

1872年6月6日、ヘッセン・ダルムシタット大公国の公女としてドイツに産まれる。

イギリス的な実務家であり、『人生は働くためのもので楽しむものではない』という信条をもち、当時のロシア貴族の退廃した倫理観を軽蔑していた。

それによって高慢で冷淡な女というイメージが彼女にはつきまとった。

よそ者で裏切りもやりかねないという彼女のイメージはツァーリとその家族の個人的威信と権威を損なう大きな要因となった。

また、慈善家という顔ももち、皇族でありながら従軍慰安婦の免状も取得し、負傷兵を慰問したりもしている。

ロマノフ家に嫁ぐ以前はルーテル教の熱心な信者であった。

ロシア正教に改宗後は、ルーテル教と同じ情熱を捧げた。

彼女の信条もまたその宗教観から産まれたもので、苦痛によってひとはあの世をかいま見る可能性を得、神はそれに対し、報酬を与えると信じていたようだ。

宗教により生成された人格は、論理よりも直感を信じる傾向があった。

ニコライ2世も同じような傾向があったため、ラスプーチンなどの霊能力者に傾倒することとなる。

長女オリガ

[オリガ]

1895年生まれ。

四女の中で一番思慮深く、敏感で知的。







次女タチヤーナ

[タチヤーナ]

1897年生まれ。

性格は子供達の中で1番母親に似ていた。








三女マリア

[マリア]

1899年生まれ。

思いやりがあり、純真で気持ちの優しい子供で、一度会った人でもすぐ仲良くなった。







四女アナスターシャ

[アナスタシア]

1907年生まれ。

家族で一番のお調子者。








皇太子アレクセイ

[皇太子アレクセイ]

1907年生まれ。

王位継承権を持っていたが、血友病のため王位につくことができなかった。








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